つきこの観劇ブログ

藤原竜也さんとWOWOWが好きです。

《舞台》フリムンシスターズ

「フリムンシスターズ」

作・演出 松尾スズキ 

Bunkamuraシアターコクーン 

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座席はS席1階後方部。私の隣の席が空いていたので満員御礼でないことは明らだが、客席の8、9割は埋まっていたのではなかろうか。(2階席を覗いていないのでなんとも言えないが)盛況な様子に安堵すると同時に、ここにいるひとは皆この日を楽しみにしていたんだよなとふと想い、親近感が湧く。

劇場に来て、見も知らぬ他者に親近感が湧いたのは初めての体験だ。コロナ禍は人類に不思議な連帯感を産んだのかもしれない。

それこそ、そこいくおじさまにも、ここいくおじさまにも親近感・・・そう、客層は中高年が多めで男女比半々という印象だった。舞台は女性客が多いイメージだったので、友人に「松尾さんファンは男性が多いんだね」と言ったら「いや、まさみでしょ」と返ってきた。

そうか、まさみか。

 

観劇理由① 長澤まさみが見たかった。

そうだ、まさみだ。

わたしが今回フリムンシスターズを見たいと思った理由のひとつは、長澤まさみさん(以降はいつも通り、まさみちゃん、と呼ばせていただく)が主演を務めることだった。

きっかけは「映画コンフィデンスマンJPロマンス編」だった。それまでわたしにとってまさみちゃんは、お城の高い窓辺に腰かける王女様のようなイメージがあった。彼女のキャリアと容姿端麗さ、プライベートを過度に露出しないスタイルもそんな雰囲気を作ったのかもしれない(芸能人はセレブリティな存在であってほしい私にとって、それは良いイメージだ)。

でもコンフィデンスマンのまさみちゃんを見てその脳内イメージに変化が起きた。この作品で彼女が演じるハイテンション頭脳派自己中主人公は、彼女の容姿のポテンシャルを完全封印したキャラクターだ。だって服装とか髪型とかなんかダサかったりするし変顔もする。長澤まさみなのにかわいく見えなかったりする。その後ドラマも全話拝見し、結果、まさみちゃんを好きになっていた。

そんな背景から親しみを持ちもっと彼女の作品を見たいと思ったときの舞台だった。

フリムンスターズの公演パンフレットで松尾さんがまさみちゃんのことを「“こっち側”か“あっち側”かといったら、“こっち側”のひとなんじゃないかって。(中略)根っこにあるものはすごくフラット(また中略)たぶん笑いのセンスも近しいものを持っていると、俺は信じています」と語っている部分があって、そうそう松尾さん、そういうとこだよ〜!!と思った。そういうとこです。笑

 

まさみの歌にもってかれる。女優が歌を歌うと、こうなるのか。

わたしのなかで「歌うひと」というイメージがなかったので、まずは歌のうまさに驚いた。特に印象的だったのが第一幕終盤で歌われる「うちはフリムン」という曲の歌唱。これまで生気のなかったヒロインが、とある目的を持つことで生きる意味を得て輝き始める場面での歌唱だ。

走りながら(正確には走る演技)歌うシーンで、揺れずに伸びがある強い歌声を終始響かせていたので単純に歌の技術やクオリティも高いのだと思う。が「長澤まさみって歌うまいんだねー」という感嘆よりも、感動があった

あとでパンフレットで歌詞を確認したらこの曲、そこまで良いこと言ってるわけじゃない曲だったのでびっくりしたくらいだ(すんません)、だって歌唱中は「この曲、名曲や!」って確信してた。でも歌詞を知ったうえでも、わたしのなかでは最終的に今回の演目で一番すきな歌だ。

この歌で、彼女の演じる役柄が、変わりたがっている変わろうとしている進みたがっている進もうとしている、前に前に!という感情をドカン!とくらった。

響く歌。女優が歌を歌うとこうなるのか、そんな感想を持った。

 

 ※とんでもなく余談…まさみちゃんが笑顔で踊って歌うシーンがかわいくて。彼女の赤い口紅を見て自分も大好きな口紅をつけてお出かけしたいと思った。マスクつけてると口紅できないので最近つけてなかったけど、また塗りたくなった。枯れ果てていたわたしの美意識にも潤いをくれたミューズまさみちゃん、ありがとうありがとう…

 

観劇理由② 松尾スズキさんの舞台を見てみたかった

私がこの舞台を見る理由のふたつめが、松尾さんの舞台を見てみたいと思ったからだった。きっかけは自粛期間中にYouTubeで見た「キレイ」の映像(ケガレのテーマの歌唱シーン)だ。再生ボタンを押しすぐに後悔した。この世界観を知らずに生きてきたことを、だ。

私の本能が、このひとの創る舞台は、日々の柵やらなにやら七面倒臭いことを私に忘れさせ、異世界に没入させてくれるのではないかと期待したのだった。

 

世界観、時間軸…様々な“錯覚”が散りばめられた演出。

フリムンシスターズは、舞台を東京は西新宿に据え置いた現代劇だ。主人公は無気力に生きるコンビニ定員の玉城ちひろ長澤まさみ)、落ち目女優の砂山みつ子(秋山菜津子)、女優に寄生するオネエのヒデヨシ(阿部サダヲ)、この3人が劇タイトルにある「フリムンシスターズ」である。(なお、フリムンとは沖縄の方言で「気ちがい・バカ」という意味だ。中盤で唐突にちひろがこのグループ名?を命名する。)

この3人の置かれた境遇は華やかでなければ幸福でもなく、皆過去に囚われながら生きている。そしていたるところに死の臭いが存在する。死ぬ人死んだ人死なれた人、死んでないけど死んだように生きる人、登場人物の「生」の傍に当たり前のように「死」があるのだ。

そんなふうに、基本設定はリアルで地味でなかなか不幸なはずなのに、観客はこの舞台がファンタジックで派手で心底ハッピーな物語かとふと錯覚してしまう。これはそこかしこに仕込まれた笑いの種やキャラクターたちの強烈な個性の所業だ。特に、ストーリーテラー皆川猿時さん演じるオネエの親玉?信長、篠原悠伸さん演じるヒデヨシの元彼ヒロシ)は光っている。

物語の後半で、ストーリーテラーのトリックがわかったときのやられた感は気持ちがいい。トリックがわかったうえでもう1回見返したいと思う。そういえばあのときヒデヨシは信長の身体を躊躇なく踏んでいたな…とか、信長の「ここにくるのは、おしまいのとき…」という台詞の真意とか。世界観が噛み合っていなかったことの確認作業をしたくなる。そういうこの作品を何度も見たいと思わせる仕組みに唸ってしまう。

 

ミュージカルなのにミュージカルミュージカルしていないミュージカル

講演パンフレットで、コロナ禍で時間ができたから台本の執筆時間が増えて音楽劇から本格ミュージカルになった、というくだりがあったが、この舞台はあまりミュージカルミュージカルしていないミュージカルだった(え。)

簡単に言うと、タモリさんが苦手なミュージカル(かつて笑っていいともか何かで、俺いきなり台詞を歌で歌い出すの苦手なんだよな〜と語ってらっしゃった。)ではなかった。演者が「音楽!!」と言って、自分から歌います宣言して歌いだしたり、横から演者たちがスーッと出てきて今から歌うなーって雰囲気をつくるので「唐突に歌い出す」感がなかった。目の肥えた友人も「ミュージカルってたまに客席が置いていかれる感があるけど、それはなかった」と言っていた。

  

その他諸々〜演者さんについて〜(感情の赴くままに)

秋山菜津子さん、わたしは2019年のカリギュラ(笑いいっさいなしの重重の重のストレートプレイ)が初見だったので、このひとこんなコミカルなのもできるの!しかも歌、うま!と驚いた。過去のとある出来事からパニック障害になり絶賛スランプ中の女優砂山みつ子は、子供のような自己中わがまま人間なのに、決して嫌いになれない愛らしさがあった。ご本人、色気があって艶っぽ美人なのにこんなかわいくもなれるなんて!同じ性別を与えられた者として羨望の眼差し!

阿部サダヲさんはもう、「サダヲにできないことはない」これにつきる。歌うまいし身体の使い方、しなりとか、真ん中立ったときのピシッとバシーっと感がなんていうか、ステージ映えというのかしら。

阿部さんがセンターで歌う「2億円のオカマの物語」っていう劇中歌を歌うシーンが好きでした!タイトル見ると、  え?笑  ってなるかもしれないけど、力強くてメロディもいいんだよ〜!!

オクイシュージさん、性格のまったく異なる(見た目も)ふたごの一人二役。え?同じ人?って感覚。後半の手紙を読みながら人格が切り替わるシーンはお見事。よくドラマで、「この手紙を読んでいるということは私はもうこの世にはいないということですね」からはじまる手紙を読んでいるうちに読み手が死んじゃったお母さんとか恋人になって顔と声が切り替わるシーンがあるけど、あれを実況板で見た感覚!伊勢丹のムードを愛する会っていうネーミングセンスの良さよ〜笑!!

猫背椿さん、いろいろぶちこんでくれました。似てない桃井かおり(と、劇中でもいう)とか、TMレボリューションとか笑

河合優実ちゃん、少女時代のちひろ&ちなみ、え?かわいくない?だいぶ後方席から遠目で見てるけどかわいいぞ?公演パンフ見たけど字もかわいいな。若いみたいだけどこれから活躍することになるのやも…え、今年ハタチ?

笠末はるさん、歌が時空や次元を超えてうますぎて、舞台中なのにこの方の歌のあとは自然と拍手が湧き上がっていたしわたしも拍手した。あの瞬間マスクしなくてよかったら、誰かが指でピューっとか音鳴らしていたはず。

ほかにもいっぱいあったけどハァハァしてきたからこのへんでストップ!!

 

この舞台の伝えたいメッセージ。

全編コメディタッチでお送りされていたので多いに笑ったが、不謹慎だ差別的だと言われる場面も多々あったように思う。例えば栗原類さん演じるジョージの特技が首を吊るパフォーマンスでその描写があったり、LGBTに関するネタも勢いがよすぎて勝手にヒヤヒヤしてしまった。

舞台を創るひとたちは、世の中の動向や人間の感情に敏感なはずだ。私のように思う人が出てくるのも予想の範囲内であろう。しかしあえて突っ走った。 

 

クライマックス近くのちひろの台詞に少しだけヒントが繋がる気もする。

「間違った指示にヘラヘラ笑いながら、自由を差し出すのはうんざりだ!」

ここでいう「間違い」は「自分の意思に反すること」と解釈した。

言論の自由というけれど、現代社会において自由に論を発することにはリスクがある。三者からの批判というリスクだ。

人に批判されることは心がすり減る、だから相手が喜びそうな台詞を言ってその場をやり過ごすことも往々にしてあると思う。

俗にいう、世間一般的な常識が「正解」「答え」だという考え、それも決して間違ってはいないと思う。

だけど極論を言えば、自分にとっての正解は、自分自身の考えなのだ

あなたには考える自由がある。

あなたには行動する自由がある。

ひとの批判を恐れて、顔も見えない誰かの顔色ばかりを気にして何も言わずにいたら何も始まらないしあっという間に10年くらいたっちゃうよ。そんなメッセージが、あるのかもしれない。

 

きっとこの舞台の物語に明確なメッセージはない。だけど多方面に考察の種が散りばめられてある。終始笑いに溢れた世界のなかで、ともすれば誤魔化されそうになる瞬間、

「あ。」

と我に返る場面が誰しもにあったと思う。そしてそれは一瞬では言語化できない違和感だったりモヤモヤだったりする。自分がなぜそういう感情に陥ったかその意味を、当人が自分なりに探り、何らかの落とし所(意味)を見つけることが、この舞台が観客に届けるメッセージなのだと思う。 ハッピーになるならハッピーになってくださいそれはそれでOK。なにか思うことがあるならいろいろ考えてみてくださいそれもそれでOK。そんなふうに。

 

まとめ

物語のクライマックスは、みんなで笑顔で歌を歌って心底ハッピーハッピーなエンディング

に見えるだが、実は誰一人完全には救われないまま「まいっかー」のノリでフィナーレを迎える。

特にちひろの行く末に待ち受けるのはきっと世知辛く生きづらい世の中だ。

だけど生きる意味を持ち、考えることを始めたちひろは、はたから見たら不幸だったり理解できなかったり味気なく見える人生を送るのかもしれないが、彼女なりの喜びを見出し生きていくはずだ。幕がおりたこの先のストーリーは、幸福ではないかもしれないけど不幸ではない。そんな終わり方だった。

 

2020年がまもなく終わる。

今年はつらい出来事が多かったように感じる。 

「何事にも意味がある」ともいうが、2020年に起きた悲しい出来事たちのなかに希望の光を見出す真似を、今回ばかりはしたくない。

そうは思っているのだけど、

コロナ禍がなければこの舞台は存在しなかったかもしれない。

コロナ禍がなければ私はこの舞台を見ようと思わなかったかもしれない。

そしてこの舞台と出会えて心底よかったと思っているし、これからも演劇を見続けたいと改めて思えた。

それは事実として ある。

 

どんな出来事も必ず意味を持つ。望んでいても、望まれていなくても。

私たちは呼吸をしていく限り、変わらなければいけないし立ち止まってばかりもいられない。

自分のストーリーをよりよく生きるためには自分を表現することをあきらめてはいけない。表現することは怖さもあるが、新しい世界を知れるチャンスなのだ。恐れてばかりはいられない。

とりとめのないまとめとなってしまったが、そんなことを感じて、今回は、以上。